大波小波

美しい国の根腐れ

未履修やイジメ問題、マスコミは例によって大騒ぎだが、実はこれまで結び付けなかっただけで、同根の事件は学校に限らず、社会全体に発生してきたはずだ。汚職、談合、ヤラセ、選挙違反から飲酒運転、違法駐車(駐輪)、シカトにいたるまで、それらは政官財、マスコミ、お父さん、お母さんも含めて日常化した倫理観の薄さが生んだ現象にすぎない。モグラたたきと一緒で、一匹を押さえ込めば別の穴からもっとイヤな奴が顔を出す。バレなければ何をしてもいいという大人を見て育つ子供が、その真似をするのは当然である。外づらだけの化粧に熱中しているうちに、この国は「美しい国」とか家族愛とか、自明の事柄をスローガンにしなければならないほど根が腐りはじめたのである。

 教育行政で言えば、「ゆとり教育」で時間を減らす一方、授業科目を増やし、競争原理で尻をたたけば、窮した学校が父母も望む受験重視に走るのも無理はない。もちろん、歴史に学べという教訓を忘れて、世界史を教えなかったことは洒落にもならないが、過去の方針は

すぐ忘れる政治家が、連合赤軍犯人釈放以来の「超法規的措置」を思い出したのは、何と評したらいいのだろう。 06.11.13

9月5日の中日新聞朝刊の1面トップに愛知県知事選候補に石田芳弘市長(60歳)が出馬の意欲を伝えた事が分かったと出ていた。その後に元県総務部長で厚生労働省審議官の御園慎一郎氏(53歳)の2人を軸に調整しているそうだ。
小沢 一郎(オザワ イチロウ)所属院 選挙区 政党:衆議院 岩手県第4区 
民主党
プロフィール:1942年5月24日生 初当選/1969年 当選回数/13回、氏は自民党の小泉よりはいいが、小泉政権の官僚批判をしているのに官僚を候補にあげることがよくある。私は、平成4年の衆院選で民主党の都築候補を支持するときに質問した。なぜ官僚出身者を候補にするのかと。その答えがすべての官僚が悪いのでない。また、官僚の実情をよく知っているからだと答えていた。同じ今日の紙面にも岐阜県の裏金の事も載っているし8年前のビデオにも大蔵省の官僚の接待による不祥事で逮捕をやっていたが、もう何年も警察、検察、外務省など腐敗の連続なのにいつまでたっても腐敗はなくならずどうしたらいいのか、こうしてネットで発言するしかできない自分が情けなく思っています。国を動かすのは大変ですがまず地方からと言う事で、9月9日豊橋市のカリオンビルで政務調査費監査請求棄却をうけて今後住民訴訟を視野に話し合いますから都合のつく方は来てください。
9月10日午前10時より名古屋市市政資料館から栄までデモ行進を
冤罪名張毒ぶどう酒事件 発生満45年
午後1時30分 名古屋市教育会館にて
「 奥西勝さんを取り戻せ―全国支援者集会  」開催
死刑宣告37年目の行動にご参加を!
事件解決のため、是非、あなたのお力をお貸しください。

2006.8.23

Charles Chaplin(1889〜1977)

NHK放映の訳より



「悪いが皇帝にはなりたくないごめんだ 

 支配も征服もしたくない

 できれば助けたい ユダヤ人も黒人も白人も



 人類は助け合うべきだ

 お互いの幸福を願おう 憎みあってはならない

 世界は豊かでみんなが生きていける



 人生は自由で美しいはずなのに― 道を見失った

 強欲が人間の心を毒し 憎悪の垣根を作り―悲惨と流血を招いた


 世のスピード化が我々をとじこめ― 機械が物欲を増進する

 知識が人間を懐疑的にし知恵が非情にする



 思考より感情 機械より人間性が必要だ

 大事なのは

 知恵よりも優しさと思いやりだ

 真心がなければ暴力しか残らない



 飛行機とラジオは我々を結びつけた

 この発明を使い人類の良心に訴えれば― 世界をひとつにできる

 今も私の声が全世界に届いている 失意の多くの人々に

 拷問に苦しみ無実の罪を嘆く人々に彼らに伝えたい“絶望するな”と

 悪夢はいずれ消えるだろう



 人類の進歩に恐怖を抱く者は滅び―

 独裁者は死に絶えるだろう

 権力は民衆の手に戻る。

 自由は決して滅びない



 兵士よ 諸君を奴隷にする残虐者に手を貸すな

 自分で考え感じるのだ。誰が諸君を家畜のように家畜のようにこき使い見捨てるかをそんな連中に従うな

 機械の頭と心を持つ連中に。


 
 諸君は機械でも家畜でもない人間だ。

 心には愛がある。憎みあうのは愛と人間性のない者だけだ
 
 奴隷になるためでなく自由のために戦おう
 



 聖書いわく "神の王国は人人の中にある"

一人ではなくみんなのなかにある



 諸君は力を持っている

 機械を作り幸福を築く力を

 自由で美しい人生を創造する力を

 人生はすばらしい
 
民主主義のためにみんなの力を

一つにしよう。新しい平和の世界のために戦おう

青年に仕事と未来を与え老人に保障を与えよう

独裁者もそう言って政権を取った。だが約束は大うそで守る気はない



 独裁者は野望に燃え

民衆を奴隷にした



 戦おう 約束を果す為に自由な世界のために

国境をなくして 野望と憎しみを追放しよう

 良識の為に戦おう  科学と進歩が人類を幸福にしてくれる

 兵士諸君 民主主義の為に一致団結しよう !

2006.5.17

大波小波

日本の企業が失ったもの
今、2002年から続く、戦後2番目の長期好景気だと言われている。はぁ 〜?と疑問に思う人たちが多いのではないか。消費税率引き上げのためのデモンストレーションかと勘ぐってしまう。「最高益の陰で加速する職場崩壊」(『週刊エコノミスト』3月14日号)には、従業員の帰属意識や士気、モラルの低下、品質管理の劣化、人材の空洞化、鬱病の蔓延等々の病巣なっている職場の状況がまとめられている。安全性を後回しにして、整備部門を中国などに外部委託、行き過ぎた合理化、リストラのつけが運行上のミスやトラブルを誘発している日本航空の実態。旧三行の主導権争いで荒れるみずほ銀行、猛烈なリストラで減る行員とノルマの増大の三井住友銀行等々。近年、多くの企業の業績が回復したが、それは大幅なリストラを経ての話だったわけで、給料も社員も減り、労働時間は延びるといった過酷な労働の現場やモラルの低下を招いたことは否めない。成果主義を導入したものの運用が難航、正社員と非正社員との格差拡大、人材使い捨ての実態は、働き手の多様性を尊重するという規制緩和の理念とは程遠い。景気拡大といわれても実感が伴わないのはこういった現場の疲弊があるからではないか。(非正社員)

2006.4.2

中日新聞社説より
“自由”を問い直す
週のはじめに考える
 権力者の思うままを許さないことが憲法の役割です。強い者と弱い者の共存を目指すのが真の自由社会です。小泉流の憲法観には“異議あり”です。

 「自由」について考えさせられることが続きます。まず最初に、中国などの反発を招いた小泉純一郎首相の靖国神社参拝とムハンマドの風刺画の報道を取り上げましょう。

 首相は「小泉純一郎も一人の人間だ。心の問題、精神の自由を侵してはならないことは憲法でも認められている」と言い、イスラム文化を見下した問題の風刺漫画を掲載したメディアの関係者は「表現の自由」を唱えます。

押しつぶされる“心”
 どちらも他人の心の内を理解しようとせず、自分の気持ちのままに振る舞う権利を主張する点が似ています。強者、優位にある者のごう慢さを感じます。

 不思議なのは小泉首相が日の丸、君が代の強制に何も言わないことです。入学式や卒業式で「日の丸掲揚に起立できない」「君が代を歌えない」という先生が処分され、「心の自由」が押しつぶされています。反戦の落書きをしたりビラを配ったりした人が逮捕されています。

 「こころ」を重視するのなら、これらのことに何らかの言及があってしかるべきでしょう。

 そこで「自由」について基本から考えます。

 一般の国民と同じように内閣総理大臣にも心の自由があり、自分の心に従って行動してもよい。これが首相の展開する論理です。

 しかし、国王の権力を法の力で制限しようとしたのが近代憲法の淵源(えんげん)です。憲法が保障しているのは「権力からの自由」であり、権力者の自由ではありません。それは政府や権力者を規制する原理です。

 権力者を縛る憲法を、首相という最高権力者にかかる制約をはねのけるために持ち出すのは矛盾です。

内心に踏み込む法規範
 日の丸、君が代の強制に続いて、国民の内心を管理しようとする動きもあります。国民に「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支える責務」(自民党の新憲法草案)を押しつけ、教育基本法改正で子どもに愛国心を植え付けようとする人たちがいます。

 法規範で人間の「こころ」の在り方にまで踏み込み、特定の方向へ引っ張っていくのは、立憲主義の考え方とは正反対です。

 「およそ立憲の政において君主は人民の良心に干渉せず」−百年以上も前の政治家、井上毅がずばり言い切りました。

 小泉構造改革の柱、規制緩和や市場原理の基本である自由競争に関しても疑問が浮かびます。

 経済活動における自由とは、役所や役人からあれこれ細かな指図を受けないで、当事者同士の合意に基づいて取引や契約ができる状態をさします。これも「権力からの自由」であって、強い者が思うままに振る舞う自由ではありません。

 フランス人権宣言第四条には「自由とは他人を害しない範囲で自分の権利を行使できること」とありますが、日本の現実は「強者がより強くなる権利」になっていませんか。

 例えば、雇用規制緩和、働き方の多様化など美辞麗句のもとパート、派遣、契約、業務請負など企業側の労働力コストを引き下げる雇用形態が広がりました。その陰で、大部分のごく普通の労働者は企業の支配的地位の前に不利な条件でも労働を余儀なくされています。

 国税庁調査による民間企業労働者の平均給与は七年連続で減少しています。参入が自由化されたタクシー業界では、運転手の年収が十五年前の30%減です。平均が生活保護基準を超えているのはわずか十都県、家族を抱えて二百万円以下の人もいます。それでいて車両を増やし、収入を確保している会社が多いのです。

 市場原理とは強い者だけが生き残る「ジャングルの自由」のことなのでしょうか。

 「規制緩和」や「構造改革」「市場原理」などのかけ声に金縛りになったかのような日本社会は、小泉改革を批判的に論じるには勇気を要する雰囲気に支配されています。

 でも、小泉内閣の強引な手法に懐疑の目を向ける人がやっと最近になって増えました。現実を無視できなくなったのです。

 映画「白バラの祈り」が全国各地で上映され、静かに、しかし着実に観客を集めています。一九四三年のドイツで、ナチズムに抵抗する運動をした若者が逮捕され処刑されるまでの五日間の実話です。

良心圧した追随、迎合
 映画のテーマは、事実を直視し、心の命ずるままにナチに反対した若者の良心だけではありません。ヒトラーに忠勤を励む政治家や官僚、権力者に追随、迎合する民衆など、当時のドイツ社会を映しています。

 時代は違いますが、何となく類似性を感じさせる日本の現状に対する不安が、人々に映画館へ足を運ばせるのではないでしょうか。

2005.11.28

森田実さんの転載

at 2005 11/24 22:51 編集

2005.11.23(その1)
2005年森田実政治日誌[460]

日本自立・非従米路線と小泉従米政治との対決――「日本自立・非従米主義」の新しい波が全国に広がり始め、小泉従米政治への批判広がる/関岡英之論文(『文藝春秋』12月号)が全国で広く話題になっている

「病むものは汝一人ならざるを知れ」(内村鑑三)
[内村鑑三(1861-1930)は無教会主義のキリスト者、武士道的キリスト者などと呼ばれる日本独自のキリスト教を唱えた人。『代表的日本人』の著者]



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 毎日のように私は地方講演のために全国各地を旅している。旅先や旅の途中で、可能な限り人々の意見を聞くように心がけている。
 最近よく話題になるのが、関岡英之氏の『文藝春秋』12月号論文(奪われる日本――「年次改革要望書」米国の日本改造計画)である。
 「郵政民営化はやっぱりアメリカのためだったのですね。次は医療だそうですね。医療もアメリカに持っていかれるのですかねえ」。
 「もう日本はアメリカの植民地ですね。小泉首相は植民地日本に派遣されたブッシュ政権の手先なんですね」。
 「もう日本は独立国ではないのですね。自民党も公明党も民主党も官僚もマスコミも日本経団連も広告会社の電通も、みんなアメリカの手先なんですね。彼らには『日本』『日本国民』がないんですね」。
 「『文藝春秋』12月号に『竹中平蔵が総理大臣になる日』という論文が載っていますが、竹中という人はアメリカ政府から派遣されたような人でしょう。アメリカの利益だけのために働くような人が日本の総理大臣になるんですか。日本国民の多くは、それでいいと考えているのでしょうか」。
 「政治家だけでなく、マスコミも官僚もみんなアメリカ政府の手先の小泉政権の手先なんですね。おそろしいことになりました。日本はアメリカの一つの州になってしまうのですか」。
 こうした声を、私は毎日のように聞くようになった。
 多くの人が「小泉政権は何かおかしいぞ。日本国民よりブッシュ政権の利益のために働いているのではないか」と感じていた。この感じが間違いでないことが、『文藝春秋』12月号の関岡英之論文で裏づけられた、ということかもしれない。

 日本の政治は、今後、東京中心の「従米主義・ブッシュ追随主義・弱肉強食主義・地方切り捨て・弱者切り捨て主義」の政治路線と、地方に芽生えた「日本自立・非従米主義・地方重視・中道主義」の新たな政治路線――この二つの政治路線の対立の時代に入る。
 日本のマスコミは小泉政権の手先であり、「従米主義・ブッシュ追随主義」の広告・宣伝機関であり、地方に広がりつつある「日本自立・非従米主義」の波にまったく無関心である。というよりも、まったく無知である。
 東京のマスコミ(とくに民放テレビと大新聞)は、地方の敵である。われわれは、地方に起こっている新しい「日本自立・非従米主義」の潮流を伝える新たなメディアを育てなければならない。
 東京のマスコミ(とくに民放テレビと大新聞)を拒否する運動を起こし、広げるべきである。「民放地上波テレビは見ない」「中央紙の購読をやめる」運動を広げていきたい。
 「千里の道も一歩から」である。


2005.10.21

2005.10.20(その2)
2005年森田実政治日誌[399]

小泉首相の驚くべき論理のすり替え・究極の詭弁――問題は憲法第20条をめぐる問題であり、中国・韓国の国民感情の問題であるのに、憲法第19条を持ち出す小泉首相の姑息な逃げ

「退屈な男になる秘訣は何もかもしゃべることである」(ヴォルテール)

10月19日夜10時過ぎに「NHKニュース10」をつけると、ちょうど小泉首相と前原民主党代表の党首討論の模様が放送され始めたところだった。昼間の中継を見ることができなかったので、すべての議論はわからないが、靖国問題についての小泉首相の発言の一部を知ることができた。
 小泉首相は憲法第19条を持ちだした。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」の憲法第19条によって、小泉首相自身の靖国参拝を合理化しようとしていた。これはひどいと思った。
 小泉首相の靖国参拝が外交問題になるのは、小泉氏が首相だからである。首相は公人である。首相がA級戦犯を合祀している靖国神社に参拝したから、外交上の重大問題になっているのだ。首相でなければ誰も問題にしない。それを、小泉首相は一般国民の「思想・良心の自由」の問題にすり替えているのである。こんなインチキを許してはならない。
 こんな論法を通じさせている自民党はどう考えてもおかしい。沈黙している公明党もおかしい。前原代表の追及もこの点は弱い。
 小泉首相が憲法第19条に逃げ込むことは、あまりに卑劣である。
 もう一度強調しておく。首相だからこそA級戦犯に頭を下げてはならないのだ。小泉純一郎氏は、それくらいのことはわかっていてやっているのではないか。わかった上で詭弁を弄しているのではないか。小泉首相の精神には、誠実というものがないのだろうか。
 大阪高裁の違憲判決に追い詰められ、中国と韓国が本気で怒ったために、周章狼狽して憲法第19条に救いを求めるとは、卑劣である。恥を知れ、と言いたい。

2005.6.9  大波小波

JR西日本の福知山線脱線転覆事故からひと月半になる。世界の鉄道事故史に残ること請け合いの今回の大惨事は、なぜ起きたのだろうか。現象面から言えば明らかに人災である。だが事故調査委員会が、運転士の技術面や過密ダイヤなど目に見える原因のみで、今回の事故を解明しようとしたら、落とし穴にご用心。
 国鉄の民営化で極端な利益追求が至上命令となると、JR西日本は社員を単なる人的資源と見なすようになり、安全性を無視した実行不可能ともいえるダイヤを組み、それを運転士に強いてきた。厳罰主義、問答無用式による「金儲け第一主義」は、大阪支社長が4月に全社員に配布した文書に如実である。
『週刊金曜日』五五六号によれば、財産になる優秀な職員は「人財」、平均レベルの職員は「人材」、ただいるだけの職員は「人在」、邪魔な職員は「人罪」と、「ジンザイ」を4種類に分けてはばからなかったとか。むろん待遇にも大きな格差がつけられていた。安全性無視の経営方針のもとでは、乗客も単なる“モノ”でしかなかったのである。小泉首相が進める構造改革とやらが、必ずしもバラ色の世界を現出させるとは限らない一つの回答がここにもある。

05.6.1  大波小波
勝ち組、負け組といった生活格差の広がりが、競争社会の行き過ぎに目を向けさせている。日本社会は官主導の協調経済だったが、経済の効率化をそいだという反省から市場原理が第一という政策になっていた。それも転換期に入った。正村公宏の『経済が社会を破壊する』(NTT出版)もそうした意見のひとつだ。日本社会は人間の量(人口)と同時に質でも再生産に失敗したという。長時間労働、家族の崩壊、幼児虐待、社会保障制度の揺らぎ・・・。根は圧倒的な商業主義、産業主義の影響にある。これからの経済政策は、成長でなく、資源と環境、人間性の維持に目標を置くべきだ、というのが正村の主張である。
 しかし、橋梁工事受注をめぐる大企業の体質的な談合などを眺めると、これまでの競争促進策はなんだったのか、という思いにとらわれる。正村は、社会装置としての企業に対し社会的ルールのもとでの公共的な監視が不可欠である、と政府による企業行動の制御を説いている。
 まっとうな意見ではあるが、果たして実現できるのか。小泉政権の経済財政諮問会議を見ていると、民間議員という名の企業経営者が政府を制御しているのが現実である。


04.8.10   大波小波 あきらめない

『平和と平等をあきらめない』(高橋哲哉/斎藤貴男、晶文社)。現在の事態をよく衝いた、苦い感慨を呼ぶタイトルだ。
 戦後、恐らく1970年代までは、少なくとも建前として、平和と平等の重要性は自明だった。それは社会科学の本が良く売れた時代とも重なる。が、80年代の狂騒の後、90年代末には「勝ち組・負け組」騒ぎが始まり、もはや人々は自分の生き残りしか考えなくなった。社会という連結車両がバラバラに切り離されていく中で、自分だけは指定席に居残ろうと、狂奔する。競争がすべての、強者の論理に居直った、新自由主義の時代の到来だ。
 自衛隊の多国籍軍編入に際しても、首相はふざけた川柳を嘯(うそぶ)くのみ。日の丸・君が代が強制されて教師・生徒の内心の自由が踏みにじられても、彼らを救援する声が高まるでもない。首相や石原都知事のような扇動的な政治家が、弱者に冷酷な政策にもかかわらず人気を得る。辺見庸がつとに指摘してきた「ヌエのようなファシズム」の具現化である。
 いつでも「弱者」に転じうる人々が、まだ安心、と、強者に加担する。これはナチスの時にもあったことだ。恐怖と褒章による人心の支配は、すでに始まっている。気付け! 諦めるな!(世界市民)

2003年5月22日 
昨日NHKのその時歴史が動いたを視聴した。    その時=昭和15(1940)年2月2日  
衆議院議員・斎藤隆夫が、日中戦争処理に関する政府批判演説をおこなう。
 一枚の録音盤から聞こえてくる、政府を糾弾する国会演説。そしてそれを打ち消そうとする怒号と罵声。演説の声の主は、衆議院議員・斎藤隆夫。太平洋戦争前夜、言論統制が進む時代に、身の危険を顧みず、軍部の政治介入、政府、議会の堕落を糾弾した国会演説は日本中に衝撃を与えた。泥沼化する日中戦争。国民の犠牲が拡大する中、事態打開の方針を示さない政府。軍部の政治介入に沈黙する政治家たち。国民の真実の声を反映させることこそ政治家の責務と考える斎藤は、戦争で疲弊する国民の気持ちを代弁すべく、国会の壇上で叫ぶ。「国家百年の大計を誤るようなことがあれば、政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない!」しかし斎藤を待っていたのは、帝国議会議員除名という決定。これを機に、帝国議会は形骸化し、大政翼賛体制の下、やがて日本は太平洋戦争へ突入する。なぜ斎藤は、ひとり立ち上がらなければならなかったのか。
なぜ政府、議会、政党は斎藤を見捨て、議会政治の自壊につながる除名決定をしたのか。
番組では、演説を記録した貴重な「録音盤」をもとに、戦時下、言論が抑圧され、議会政治が崩壊してゆく生々しいプロセスを検証するとともに、斎藤隆夫の気骨の政治家としての生き方を描く。とてもいい番組であった。とくに現在、有事法制が成立し、個人情報保護法案が成立し、今日の中日新聞にもIT業界大きな打撃と6面に掲載されている。また、5月21日中日新聞に
弁護士中島通子がわかちあいという題で失業率が高まる一方で育児休業どころか死ぬほど働く人が増えるのは、どう考えたっておかしいと指摘している。

もうひとつ夕刊で北大の山口二郎(1958年、岡山生まれ)教授が転機の戦後日本で思考停止からの脱却をで警鐘している。法を守るとはどういうことかの題で有事法制を推進する政府の指導者は、日本は法治国家だから有事にも法体系か必要だと言う。法治主義の意味を取り違えられては困る。法治主義とは、国民が従順に法を守る統制のとれた国のことではなく、政府が国民に対して権力を発動するときに必ず法に従うという意味である。しかし、今までの日本の行政は、まじめに法を守ってきたとは言えない。相次いだ警察や刑務所の不祥事は、法を執行すべき行政がほしいままに権力を振るってきたことの一例である。また、こうした違法行為の横行に対して責任を取らない政府の指導者もまた、法をまじめに守っているとは言えない。そんな政府が本土決戦の時だけ法を守るといっても、説得力はない。

今日2003.5.23の中日新聞夕刊で作家の宮崎学さんが借金考の題で次のように述べています。とても重要な考えだと思いますので皆さんと勉強会を作りたいと思います。是非参加お待ちしています。
  
  金を借りる、金を貸すという行為はきわめて単純な契約に基づく経済行為であって、「道義」が問われる類のものではない。
 そして、この契約は、借りた金が返せなくなったときのことまで約定しているものである。
 もう一方で、「借りた金は返すのが人の道」という理屈があり、最近ではこれが横行している。「人の道」というのなら、最低限金利は取らないということになるのだが、高金利を取る者ほど「人の道」にうるさいようだ。「道義」は契約することなどできないものなのである。
 もともと銀行という存在はその本質は金貸しなのであるが、最近は国家からタダのような金利で無尽蔵に金を引き出す金借りに「成長」している観がある。そしてこの金借りは、利息の鞘(さや)を抜いて、本当の金借りに金を貸すのであるが、その低俗な経済行為さえ、貸しはがしに見られるように機能しなくなっている。
 
この国において、金を貸す、借りるという経済の基本構造が、為政者の過剰な介入により完全に破綻しているというのが現状である。
こうした時、住宅ローンを含み、借金を「マジメ」に返すのは、全くの愚行である。ためらいもなくすべての借金を堂々とそして明るく踏み倒す時が来たように思われる。どのような種類の借金であっても、踏み倒すこととによって失うものは、なんの意味もない「見栄」だけである。

 ちなみに私などは、数十年前からこれを実行し、何ら不利益をうけていない。       

現在の深刻な、破滅的な経済危機に直面しているときに私は、神野直彦著 人間回復の経済学を読み目から鱗が落ちました。今日も2箇所の中古住宅を見に行きましたがほんとにデフレが深刻であると感じました。首相周辺は3日夜、金融庁を中心に不良債権処理の加速策を検討していることを踏まえ、前倒しで作業を進め、来週中に金融問題の対応を柱とする基本方針を打ち出す見通しを明らかにした。このような時こそ、世紀の転換点であり、乱世であると思いピンチをチャンスに変えたいと思います。そこで勉強会など情報交換したいと思いますので、ぜひ多くの参加をお待ちしています。
 2002年10月6日 20:37:42 

 

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